神が 言葉を 人に与えたーその理由
神のことばなる聖書

聖書について学ぶということ、それは 自分と神、世界との関係について考えさせられる

私は、聖書の神を唯一の神と信じているので、聖書についてつまり神の言葉について学ぶ

聖書を学ぶとは、聖書を読み、そこに書いてあることが何か、もっと言うと、その聖句が指し示している唯一の意味、神のご性質や神が過去に私たち人類のためにしたこと、そして 神が今、私達のためにしておられること、神が 私たちのこれからの未来で しようとされていることなどについて、知ることで、その過程でいろんなことを考えるに至ります。そんな中で今回考えたのが「ことば」について。

考えることは神についてはもちろんですが、過去現在そして未来を持つ一人の人間である自分の事、自分が見聞きする世界のあらゆる事象について、自然についてそして命や生きるということと死ぬということ、などなどなど。

聖書について学ぶことを通して、自分という存在も含むこの世に存在するすべての事象について、それら万象と私の関係、それらと神との関係、そして私と神の関係について考えを巡らすきっかけを与えられる。

言い換えると、聖書について学ぶことを通して、今までは物理的、距離的に自分とは遠く離れたところで起こっている世界の万象(戦争と平和、物質中心主義や飢餓等々)や、身近ではあっても常に変化する社会的価値観とそれに伴って現れる社会課題(LGBTQ、様々な形を成すDV、汚職、政治的腐敗、社会的孤立、自殺などなど)を前に、倫理的に、道徳的にそれらのことをどのように理解し自分の中で位置づけたらいいのか分からなかったために、考えることを棚上げし知らんぷりすることしかできなかった様な事象等について、考えることを始めるための「きっかけ」「基」「軸」「錨」となるものを聖書から与えられている、そんな感じかもしれない。

今を生きることしかできない人間

今まで生きてきた「現在というの連なりである過去という線」の先端に立ち、人間が唯一生きることが許されている現在という瞬間瞬間を、私たちは、いま 生きている。

私たちは、未来について思いを馳せ、考え、予測してみるけれど、肉体という2次限空間にしか生きられない有限な物質である体を着ている私たち人間は、現在にしか生きられないー存在。

私たちは、今を生き続けることでのみ、過去においては未来という名前だった「今」に到達することができる。
今を生きなければ、この世での未来は来ない。

ことばは時空を超える

(突然ですが、BGM を聞きながら、先に進んでみてはいかがでしょうか? どうぞ)

けれど、
こんな有限な肉体を持つ私たち人間でも、言葉を用いる時には戻ることのできない過去と、人間にとっては常に未知の世界である「未来」との関りを持つことができる。

私たちは言葉によって 未来を表現することができる。
例えこれが単に、過去の経験に偏った、時に希望的であり時に無希望的な、人間の独りよがりで、不透明な憶測に過ぎないとしても、言葉は、過去と現在と未来を行き来することができる。

物理的存在の肉体は常に「現在」という地点を生きるしかない中で、言葉だけは、時空を自由に行き来することができる。

言葉は現在から過去、現在から未来へと、肉体の制限を超えて時空を行き来して、時空を表現する。

言葉抜きに私たちは 明らかな時空を表現することはできない。
言葉は、過去も現在も未来も表現することができ、そしてそれぞれの時空に存在する。
こんなことを考えていた時に、思い出した聖句が以下。

イエスキリストは、神であり、神のことばでもあり、命のことばである

新約聖書 ヨハネの福音書1章1-5節

はじめに言葉があった。
ことばは神と共にあった。
ことばは神であった。
このことばは初めに神と共にあった。
全てのものはこれによってできた。一つとしてこれによらないものはなかった。
このことばに命があった。そしてこの命は人の光であった。
光は闇の中に輝いている。そして闇はこれに勝たなかった。

 

聖書解釈によって上記を要約すると、以下のようになる。
ことばは神(父なる神)と共に、この世の始まり以前、永遠の昔から存在し、イエスキリストが、その「ことば」によってこの世の全てを創造された。そして、今まで(過去)の命も今ある命もそしてこれから生まれる未来の命も、全ての命が、命を創造されるイエスキリストにゆだねられている。すべての命の創造者であるイエスキリストは、人にとっての光である。

もっと詳しくヨハネの福音書1章について知りたい方は以下を読んでみることをお勧めします。
新約聖書 ヨハネの福音書 1章の解説 ロゴスミニストリー

神の言葉と人間の言葉が持つ力は比べるには値しないものの、
この世の全てを創るために「永遠の存在である神」が用いられた「ことば」というものが、有限な存在である人間に与えられた。
そして、人間は言葉により自らが行くまたは戻ることもできない過去と未来について、表現できるように創られた。
神によって、人は、言葉を理解し、言葉を使えるように造られた。

霊でありながらも 言葉を持つ神が、神の形に似せて作られた有限な肉体を持つ人間に、ことばを与えられた。

人の肉体は過去へ戻ることも未来へ行くこともできない現在だけに縛られている存在にも拘らず、ことばを与えられたことによって人は過去について、未来について表現することが可能となり、
自らが現在という時空だけに閉じ込められた存在にも拘らず、ことばによって過去を知り、今の生をことばで表現し、未来を考えることができる。

ことばは人に、生きている今現在だけでなく、過去とも未来とも関係を持つことを可能にする。

もっとも重要なこと

「全ての創造主なる神」が、人間にだけことばを与えられたのは
             なぜか?

私たちの、常に揺れ動く水辺の葦のような感情や社会的価値観、死生観や世界観によらず、数十数百数千年にわたる伝言ゲームの末に今ある多くの言い伝えや伝統、伝説にもよらず(人による伝言ゲームが、如何に不正確であるか、伝わる過程でいかなるものにも変化しうる不確かなものであることは、皆さんよくご存じでしょう)、
数千年という時空を「ことば」として生き続けた末に、今も私たちの手元にある「神の言葉」という書物、それが聖書。

聖書のことばによってのみ、有限な私たちが永遠なる神を知ることができ
更に私たちは「ことば」によって(時には言葉によらずとも)神に祈ることで神に語り掛けることさえ、神によって許されている
神が造られたこの地上の全ての被造物の中で、ことばは人間にだけ与えられている。
そして、
大いなる神の愛は、命の永遠の救いの約束として「イエスキリストの十字架上での贖いの死」というカタチで 2000年ほども前から人間に向けられ 今も依然として 今を生きる人類一人一人に この救いは差し出されている。

ことばは、

神について理解し、

神の救いに与るために、

神から人間に与えられた賜物なのではないか。

言葉に表しきれない驚き、

神の大いなる愛と恵み 

AMAZING GRACE

 

ころりん

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